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October 27, 2004

沖縄報告_普天間Photo04

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先日の日曜日、私の住む地域の中心市の市長選挙がありました。新人若手の経済通が当選しました。選挙前に各候補者にインタビューしましたが、口を揃えて各候補、経済問題しか話しません。それも態勢のなかでどうするかでしかなく、地域としての主体的なヴィジョンは聞けませんでした。
宜野湾市の伊波洋一市長は全く対照的、国に対しても、米軍に対しても、市民の生命を守る立場を毅然と打ち出していました。昨年「普天間基地返還」を公約に立候補当選し、英文資料を携えて何回も米議会まで出向き交渉しています。民主制度の中で自治体が何をすべきかをきちんと理解されているかたでした。普天間の移転も「ハワイへ帰るべきだし、米側にはそれを受け入れる余地が充分ある」と言い切ってました。県内盥回しや本土移転など眼中にありません。
「市民のための市長」と「米国のための首相」がいる国、日本。貴方の自治体の首長はどうでしょうか? 広島秋葉市長や伊波市長を首相にすれば、この国にも民主主義が育つことでしょう。
-9月24日 Photo by M.Nakagawa

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October 21, 2004

沖縄報告_普天間Photo03

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宮森小学校からR329を折り返して宜野湾市役所へ行きました。9万人の自治体ですが市庁舎はちょっと古いけどもけっこう立派です。「ピカピカ市庁舎の自治体はろくな行政はやっていない」というのは偏見かもしれませんが、ときどきそんなことを感じます。そういう意味ではなかなか風格もあっていい感じ。正面玄関からなかへ入ると、マッツ正面に、9月12日市民大会の写真と資料がdo~nと展示されてるのに@。@。 大会を主催したのは確かに「市」ですが、こりゃ凄い根性だと感心しました。ここの伊波市長ってイッタイゼンタイどんな方なんでしょうか?
-9月24日 Photo by M.Nakagawa

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October 17, 2004

沖縄報告_宮森小学校Photo

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那覇からR329を北上して沖縄市を抜けると石川町に入る。大きな火力発電所のある町だ。この町の宮森小学校でいまから45年前、1959年6月30日に起こった事件を本土の人間はどれだけ知っているだろうか? かくいう私も今回の沖国大ヘリ墜落事件がおきるまで寡聞にして知らなかった。この日10:30、嘉手納基地を飛びたった米軍ジェット戦闘機F100が墜落、給食中のこの小学校校舎を直撃した。児童11名、一般の方6名、計17名が亡くなり、210名が重軽傷を負った。当時は米統治下で、事故後速やかに到着した米軍によって救援の車も報道陣も学校に近づくことを許されなかったそうだ。まさに8月13日沖国大でおこった米軍による報道規制と同じだったと当時を知る人は語ってくれた。今日、10月16日、沖縄を訪問した町村新外相は墜落現場で「米軍のパイロットは操縦技術が上手かった」と平然と言い放った。こういう精神しか持ち合わせない大臣たちには、基地の恐怖を抱えながら生きる庶民の苦しみは到底理解できないのではないだろうか。宮森小の事故記念碑には優しい微笑みのお地蔵様が刻まれていた。
-9月24日 Photo by M.Nakagawa

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October 12, 2004

沖縄報告_嘉手納基地Photo01

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宜野湾市から海沿いのR58を北上し、本土復帰直後に返還され
再開発が終わったばかりの北谷町美浜地区を右に見ながら
車を走らすとすぐに左手に嘉手納米空軍基地が始まる。
嘉手納ロータリーで県道74号線に入り、
基地の北側をフェンス沿いに1kmいくと、
道の拡幅で半ば削り取られた俗称“安保の丘”がある。
この丘のの向かいに「道の駅」があり、ここから基地が一望できる。
県道を挟んだ基地の反対側もまた広大な嘉手納弾薬敞だ。
目を凝らすと基地滑走路の向こう側に蒲鉾形の建築物が
幾つも並んでいるのが見える。
基地に拝眉されている1機160億円のF18戦闘機の格納庫だ。
壁のコンクリートは厚さ1m。
ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない。
一棟の建設費は2億円。
蒲鉾形格納庫の建設費は・・・・・もちろん「思いやり予算」 ^^;
私たちの税金です。
-9月23日 Photo by M.Nakagawa

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October 09, 2004

沖縄報告_普天間Photo02

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那覇からR330を走り宜野湾市長田の交差点を左折して500m進むと大学の駐車場が左手にみえます。
そのすぐ先が沖縄国際大学米軍ヘリ墜落現場です。
道路を隔てた向かいにTVでなんども写されたコーポラス沖国が
立ち、さらに500m先にはガソリンスタンドもあります。
あらためて人命が失われなかった奇跡を感謝しました。

現在現場はフェンスで囲まれ、大学に要請されたガードマン三名が警備にあたっていました。
道に面したフェンスの「基地撤去」の横断幕が通過する車や歩いている人の目をひきつけていました。
白い壁には左上から右下へ炎上したヘリの黒煙の跡がはっきり残っています。
そして右肩あがりの数条の深い切り傷のような線、ヘリのローターが刻んだ跡です。こうして切り刻まれたコンクリ-トの破片がものすごいスピードで周囲の民家に飛び込んだわけです。
基地がある町は日常的に死の可能性を内包すると、あらためて思い知らされました。

いまこの壁の保存運動が起こっています。「壁の力」は確かにあります。
でも大事なことは基地を宜野湾から、沖縄から、日本から、世界からなくすことではないでしょうか。
-9月23日 Photo by M.Nakagawa

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October 08, 2004

地方自治が国家の象徴に呑み込まれた日

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全員協議会会場と県庁前怒りの抗議ビラ配り
議長席の後の壁に油絵がかかっている。
ここは議場ではなく会議室、でも12月8日からはもしかしたら
この位置に日の丸が掲揚されてしまうのかもしれない。
これは21世紀の踏み絵だ。
ある者はこの旗に睥睨されながら国策に異を唱えねばならず
ある者はこの旗に満面の笑みを浮かべ国策を讃することになる。

1999年国旗国歌法が制定されると
あっという間に全国の県議会場に日の丸が掲揚されていきました。
議場に日の丸がない最後の県。長野でも今日午後0時15分、
日の丸の掲揚が全員協議会で議決されました。
採決までの30分の審議の中で
何ゆえ議場に日の丸が必要なのかの説明はいちどもありませんでした。
今日に限りません。
最初に提案されてから今日までの二年間、
「自治体の議論の場に日の丸は必要ない」という私たちの意見に
満足な答えは全くありませんでした。

04.10.08 Photo by M.Nakagawa

以下は今日の反対行動のあの場のリーダーからのメッセージです。
******************************************************
Wrote by Yagi

 「日の丸」の掲揚が強行採決され、そして採択されました。
今日、無理な呼びかけに応じて都合をやりくりして集まってくださった皆さん、そして気持ちが共にありながら諸般の事情で参加できなかった皆さんに、この残念な報告を書かなくてはならないこの両手が、今も、怒りと脱力の狭間で、打ち震えています。

 全員協議会は、予定から5分ほど遅れて開会されました。
自民党控え室の前で、今回の不当な開催手続きへの抗議の申し入れのため、私たちは議長古田の登場を待ち構えていました。たった一人の議員の申入れを容れて全議員を招集する手続き上の暴挙を追及しなければなりませんでした。
 議長が控え室に入ったことを確認してから30分。開会予定時間まで3分という緊張の中で待ち構えていた私たちに入った報は、「すでに議長はここにいない」という衝撃でした。
???……!
 裏口からの、議長の逃亡! 正面きっては議場に行けぬと判断した古田議長は、あろうことか自民党控え室の裏にあるベランダを伝って非常階段から脱出し、私たちの追及を回避して、議場に向かったのです。

 強烈なデジャヴ。

 それは辺野古での基地建設阻止の圧倒的な座り込みを前にして、それを説得することも突破することもできないことを悟った防衛施設局が、辺野古から遠く離れた桟敷町の漁港から舟を出し、手の届かぬ外海から、座り込む300人をあざ笑うかのように「調査」を『開始」した、まさにその時その悔しさの再来です。

 やられた! 

 そう思う一方、議長が正面から堂々と出て議場まで歩いてい
くこともできない、そういう地平まで、私たちは、奴らを追い詰めたのだ。
この時点で、「日の丸」掲揚を目指す議員たちが痛烈に望んできた、議場への掲揚の、清々とした第一歩というビジョンが、初っ端から頓挫したわけです。
裏口からコソコソと、反対派に見つからないように議場に向かわざるをえなかった自民党所属議長の心中は屈辱に彩られ、
議場「日の丸」の第一歩はまったく汚辱にまみれたものになったのです。
それはこれまで、現場への参加・不参加を問わず、あらゆる形でこの問題に取り組んできた私たち市民・学生・労働の取り組みがもたらしたものなのです。

 結果、阻止できなかったことからすれば、
これは言い訳じみていることを承知で言います。
少なくとも、こうした情況を浮き彫りにしたこと、
すなわち「誰も反対するものもいなかった」=
「万民に祝福された旗の掲揚」であることを阻止した意義は、
計り知れず大きいのだ、と、胸をはりたいと思います。
議長に逃げられ、
肩透かしを食らった形で慌てて議場に入る私たち。
 「トホホ」という言葉は、こういう時のためにあるんだろう。

……と、何故か「です」「ます」調をやめて書き始めているのは、
多分、書きながら再現される怒りと苛立ちのためだ。
プリミティブな怒りの表現には、この口調こそがよく似合う。
そんな風に感じる。

議場傍聴に集まったのは、
連日のメールやファックスに応えて集まってくれた20人の他、
県教祖など総勢40人。仕事を無理に遣り繰りして時間を捻りだし、
わずかな時間だけでも、と来てくれた仲間の存在に、感動。
溢れかえる傍聴者の数は、これまで全員協議会に傍聴の前例が
なかったことから考えれば、異例中の異例、と言えるだろう。

予定時間より約5分遅れての開会。議長による経緯説明。
今日・この場で採決までを行う、という意思が、議長の口から公然と示される。
そして議員からの意見。
「初めての全員協議会で、いきなり採決は無理じゃないのか?」
あたりまえだ
「議論はもう尽くされてきた。」…へ? いつ? どこで? 
「県民も傍聴に来ている。たった1回、30分で決着はおかしい」
そーだそーだ
 反対派の意見の際の、ファシスト議員からの口汚い野次と、
傍聴席からの拍手、という180度の対比が、すべてを物語っている。
 
それにしても、これは議論ではない。

意見表明だけが、
前の発言となんらの文脈的かかわりもなく、
繰り返されていく。
ひとつ前の発言に対する反論ですら、ないのだ。
ここは、意見表明の場であって、議論の場では、無いのだ。
 あたかも
「ここで議論をしてはいけない」
「前の発言者の内容に干渉してはいけない」
そんな見えざる掟が支配しているかのごとき空間に、眩暈を覚える。

否! 「あたかも」では無かった。
「いたずらに議論をすればいいわけではない。
議論が深まって考えが変わる議員など、いない」
 そういう意見が、、、、、、
信じられないかもしれないが、本当にあったのだ!
そんなものがまかり通るならば、議会は不要という他ない。
「選挙」で多数を占めた者が「王様」として、
なんでもできる社会なのだ、と宣言すればよろしい。
奴に二度と「議会」「民主主義」を語る資格は無い。
ましてそのような者が議員でい続ける資格は、断じて、ない。

 おそらく議論が成立しない原因それは、
議員の資質に求められるだけのものではないだろう。
第1に、最終的には決定を議長に一任することを前提に、
議員の「意見を言う場」と位置づけられた全員協議会の土俵に、
そもそもの問題はある。
そして第2に、それを含む議会全般のシステムそのものに
根本的な欠陥があるに違いない、とは思う。
数人の良識ある議員には、
どうにもならない問題がそこに横たわっていることは、
認めなければならない。
 しかし! それを差し引いても、
ファシストたちの「意見」の凄まじさに驚かされる。
仮に、議会システムに問題があろうとも、数年前には、もう少し、
ほんの少しではあるが、
まっとうな議論が交わされていた記憶を持つ身としては。
その驚愕すべき発言の一端を列記しよう。

「国を愛する気持ちがすべてにつながる」⇒「即採決しろ」
「旗を明確に掲げた上で福祉向上につとめるべき」⇒「即採決しろ」
「国歌斉唱で開会すべき」⇒「即採決しろ」
「護憲派が違和感を持つのが疑問」⇒「即採決しろ」
 
 マイクを通しての公式な発言で、これである。
反対議員への野次は、輪をかけて酷い。
口汚く、内容の欠落した罵詈雑言。
たまりかねた傍聴者の中のひとりから、
「静かに聴け!」との叫び声が発せられることを、
僕は止める気にさえ、ならなかった。
わけても印象的な野次は、
満蒙開拓団を送り込んだ信州の歴史に触れた議員に対する
「そんなこと言うんじゃねぇよ!」の罵声。
ホントに聞きたくないんだろうな。

 そして、ファシスト議員は言う。即日採決の不当さに触れながらも
「少数を踏みにじる旗ではなく、清く美しい国旗として掲揚してもらいたい」
 
 ここに僕たちがいなければ、そう眼差されていたかもしれない。
ここにいたことではじめて、現に、掲揚への道筋がまさに
「少数を踏みにじ」りながらなされていくものであることを、
白日の下に晒すことが、できる。
そして、どんなに不当な採決がこの後になされようとも、
この点だけは絶対に負けない。
議員の発言が「議論打ち切り」と「採決への移行」を
求める声へと収斂されていき、
「強行採決」の気配が急速に充満していく緊張感の中で、
その思いを、あらためて強めていった。
そしてそれは、
その場で傍聴していた全員のものであったと確信している。

これで終わりなのか?! 
……数年にもわたって何枚ともしれぬ文章を書き、何度も何度も県庁を訪れ、議員に頭を下げ、街頭に立ち、情報を集めては裏切られ、集会をもってきた……その結末が、この議論とすらも呼べない、たかだか30分の罵詈雑言の空間で……この闘いは、負けて終わるのか?!

 そんな思いに、駆られざるをえなかった。
全員協議会終了予定時刻であろう12:00から10分ほどの時が過ぎていた。

 一時は、本当に、強行採決を阻止できる兆しを見せていたのだ。何しろ13:00からは議会本会議が予定されており、12:15からは他の要件を持つ議員も一部にいたことを情報として事前に掴んでいた。
 したがって本来、11:30から12:00までの30分間を、議論の中で消化していきさえすれば、この抜き打ち的な場での採決は、最低限、阻止できたはずなのだ。
 そうすれば次の議会までの2ヶ月の中で、掲揚を廃案に持ち込むための議員への説得が展開できたはずなのだ。中間層の多い本件に限って言えば、そこに、充分な勝機があったことは、今でも疑っていない。

 しかし閉会の気配は見えず、採決への移行を議長に迫る推進派議員たちの発言と野次はエスカレートしていく。
そして、まずは「本件に関して本日、この場で決定をする」ことが「多数決」によって採択された。

 反対する議員たち「共産党」「県民協働・無所属ネット(社会党系)」「あおぞら」の県議たちは、その決定を受け、審議ボイコットに入る。突如として、全員で退場したのだ。

「本日中の採決強行決定」
そして、それを受けての反対派議員団の一斉退席。

 この反対派議員3会派の行動が、果たして有効であったのか否かは、後にあらためて、議論されなければならないだろう。

ただ、今、僕の視点からは2つのことが、言える。

 ひとつは、この3会派が会場から存在しなくなったことで、ただでさえも疑わしい「全員協議会」という場の成立にかかる正当性が、さらに著しく低下したこと。後々に至るまで、この場の存在と、その場での「採決」の手続き上の客観的正当性に、重大な疑問符を投げかけ続ける大きな根拠になるだろう、ということだ。

 もうひとつは、この3会派が会場から存在しなくなったことで、大勢としては(若干の例外があるものの)、推進派議員のみが、その後の議場を支配した、ということだ。ファシストにとっての天国が、一転、私たちにとっては地獄の風景が、そこに、あった。

 その地獄の中で、たちまちのうちに、「現在、出席している議員の3分の2による採決」という方針が、採用された。少し記憶に自信がないのだが、おそらく、この採用に関しては、形式として採決すらされていない。一議員の提案と、その提案への議長の同意だけだったように見える。
 しかし、それも、当然なのかもしれない。あらかじめ意思統一されている集団の天国にとって、形ばかりの「採決」などは、おそらく不必要な儀式に過ぎなかったのだろう。

その空間で、次に続く議論はありえない。採決に向けて気の早い議員は立ち上がり始めている。

悪夢だ。

この悪夢から、私は覚めなければならなかった。

 私を含む数名は立ち上がり、渾身の力を込めて声をあげた。
 「強行採決をやめろ!!」
……ただちに議長から制止の声が飛ぶ。
議員からの野次も飛ぶ。しかし、聞こえない。
聞こえるわけがない。
ブラックアウトしそうな視界の中で、議員たちは立ち上がりつつあることと、TVカメラが一斉にこちらを向いたことが、かすかに分かる。

「不当な決定を許さないぞ!!」
「「日の丸」掲揚反対!!」

いくつかの言葉を、搾り出すように響き渡らせるうちに、僕たちは3回の「退廷命令」を賜っていた。

 言うまでもないことだろうけど、議員でない僕たちが議場で立ち上がり、抗議の声をあげることは、「ルール違反」だ。
どちらが先に「ルール違反」をしたか、は、明白なのだが、一旦、それを置いておいた上で、そのことの責めは受けなければならないだろう。
誰も責めないというなら、私は自らを(一旦)責めよう。

 私からの呼びかけに応じて集まってくれた皆さんの中に、あるいはこの報告を読んでくれている方々の中に、この行動に賛同できない人がいることは、多分、当然のこととして、受け止めなければいけないと、考えている。
まして、集まった当日に、「やろう」と言われて、「じゃ、そうしましょ」と、声をあげることができる人は、決して多くは無い。
それでも予想よりも大きな声が、背後から私の背中を振動させたことは、正直、心強かった。

 そう。僕は、昨日のうちに、密かに決意をしていた。「もういよいよ後がない情況にまで至ってしまった場合は、声をあげよう」と。
そうすることでしか、沈黙した反対派議員を再燃させ、限られた時間内での採択を阻止する道を開く術は、ないだろう、と、判断していたのだ。

 ただ、それを事前に公表し、相談のうえ、共有できなかったのは、単に防諜上の理由からだ。
それでもこの場を借りて、集まった皆さんに、心底から、非礼をお詫びしたい。

 ただ、当然のことながら、集まった全員にそれを強いることも、過度に期待することも、断じて無かった、ということだけは付記しておこう。
「そうでない居方」をオルタナティブとして提示できたことで、最低限の「自由な参加の在りよう」を担保することはできたのではないだろうか。
それが議場「日の丸」掲揚との対立における本質的な課題のひとつである。
議場掲揚は、その場にいる者に対して、「日の丸」正視以外の「居方」を許さない。

久しぶりの仮眠ではない睡眠を満喫したら、報告がマスメディアよりも遅れてしまった。悔しい。
 記憶をさかのぼり、昨日に、戻ろう。


 当日提起した2つの方針。そして各々が現場で選択した2つの行動、「声をあげることで顕現化する行動」と「沈黙をもって、最後までその場を背負う行動」に、優劣は皆無だ。

 全員が声をあげずに粛々とそこにいたというなら、少なくとも推進派議員に
「少数者を踏みにじることなく清く正しい」掲揚プロセスというアリバイを与えてしまっただろう。僕たちは、採択を阻止しに行ったのであって、粛々となされる採択を見守りに行ったわけでは決してないのだ。結果的に、この行為による議事の遅滞や反対派議員の再燃に、大きな影響を与えられなかったとしても、それは、必要な行
為だった。
 逆に全員が声をあげ、中途退廷を強いられたならば、今頃僕たちは、その後の議場の流れと事実結果から遭難していたに違いない。そして最後まで議場に溢れる傍聴者の姿を議員に見せ続けたことは、とても重要だ。

 そして少なくとも(まったく少ない成果だが!)「完全な密室の中で少数者を踏みにじることなくおこなわれた採決」を阻止できたのは、勇気をもって「声をあげた」傍聴の仲間と、勇気をもって「声をあげなかった」傍聴の仲間たち、そしてそれぞれの地域に残り、この問題に固唾を呑んで注目してきた仲間たちの、必然的な連携
こそが勝ち取ったものだろう。

 ともかくも3度の退廷命令を受けて、これ以上は危険と判断し、胸を張って退廷できたのは、当然、後に残り、その場を任せられる仲間がいたからに、他ならない。

 中には、床に座り込み、その場で強制排除に抗して声をあげ続ける人もいた。腕を掴み、排除しようとする官吏に対して、「無理やり外に連れ出さないで」と発された抗議の声は、集まった市民だけではなく、別口の呼びかけで集まっていた組合労働者からも発せられた。

 僕は退席を強いられ、抗議のための集合予定地である敷地外に向かう。
 そこにはすでに、9人もの警備課2課(公安刑事)が待ち構えていた。
 ヤバイ?!
 しかし、ここでひるみを見せることで、公安につけこまれるわけにはいかない。
 三々五々、退廷してくる仲間たちが、一定、揃ったところで県議会庁舎に対して、万感の怒りを込めたアピールを繰り返す。
 最後まで議場にいた仲間が、戻ってくる。

 強行採決は行われ、ファシストたちのおぞましい祭りは、幕を閉じたという。
 時に12:20。45人中、賛成40。

誰もが顔を紅潮させ、怒りに震えていた。
 泣き出しそうな顔も、そこにはあった。
 おそらく、多くの参加者に共通していたのは、「絶対に許さない!」というアッパーな怒りというよりは、余りの議員たちの有様に怒りを通り越した「情けない!」という感情だったろう。
 この諦観を、僕たち自身のふがいなさに、その憎しみの在りように、すりかえてはならない。
 それはただ、抗議の声を共有することでのみ、次に続く建設的な怒りへと、再構築できると、その時、僕には、そう思えた。

 公安による妨害が始まる。僕は周囲を見回すと、これまで同行していた記者たちがいない。奴らは、報道関係者がいなくなった途端に、介入を始めたのだ。
「公安条例違反」
「許可を取れ」
 まったく不当な言いがかりだ。権力の定め、押し付けてきた条例からさえ、逸脱している。
 名指しの警告も、まったく根拠は無い。だから従う必要も、無い。
 僕たちは抗議の声をあげ続け、議会会場窓からこちらをうかがい続ける、あのうす汚く見えるスーツの男たちに怒りの声をたたきつけ、その日の行動を、終えた。


 時間の都合で、途中で行動から離脱し、今回の出来事やこちらの方針を充分に意見交換できなかった皆さん、挨拶さえろくにできなかった方々に、あらためてこの場を借り、結集へのお礼と、不十分な対応しかできなかったことへのお詫びを申し上げます。
 私からの報告には、積極的に私見を織り込んできましたが、取り組み総体としての総括を出すには、おそらくまだ議論が必要なのでしょう。本報告をたたき台に、議論の活性化を、望みます。「掲揚」強行の12月まで、時間はあまり多くはありません。
 そして、何より、「絶望禁止!」です。
                      西暦2004年10月9日
                      八木 航

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沖縄報告_普天間Photo01

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1945年4月1日
米軍は沖縄本島中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷)に上陸。
日本軍が水際作戦を放棄し首里持久戦に作戦を変更したことにより
米軍は米軍は,上陸日の午前中には読谷の北飛行場,
嘉手納の中飛行場を占領し,東海岸沿い進撃,4月3日には
沖縄本島を南北に分断します。
このとき北へ逃げた民間人の多くは助かるが、日本軍を頼り
南へ逃げた人々はまさに地獄への選択となりました。
首里攻防の最前線が、ここ宜野湾市の嘉数台高地でした。
ここからは米海兵隊普天間基地と宜野湾市の市街が一望できます。
2時間ほどここにいましたが、基地所属のヘリコプターの離着陸は"0”。
墜落事故から二週間もせずに
大半のヘリがイラクの戦場へと飛び去っていったそうです。
左手方向に墜落事故現場の沖縄国際大学があります。
右手海上を旅客機が高度300mで南の那覇空港へと飛んでいきます。
民間機はカデナラプコンを避けて異常な低空飛行をせざるをえないのが
沖縄の空の現実です。
-9月23日 Photo by M.Nakagawa

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October 07, 2004

沖縄報告_都市型ゲリラPhoto04

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キャンプハンセン内の都市型ゲリラ対策訓練施設の建設工事を監視する
ための塔は、二箇所、沖縄自動車道のすぐ脇に立っています。
今日は祭日ですが基地の中は米国暦、ダンプが土煙をあげながら
走っていました。SACO合意によって確かに少しずつ基地の
返還も進んではいますが、実態は縮小に名を借りた近代化に
なっていると感じざるをえません。
-9月23日 Photo by M.Nakagawa

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October 06, 2004

沖縄報告_都市型ゲリラPhoto3

small04okinawa_150.jpg
国道329号線が金武町(町の60%が基地)伊芸区に入ると、
訓練施設反対の立看板がいやでも目につきます。
区をあげて、町をあげて、県をあげての反対運動ですが、
この闘いを大和人の何人が知っているでしょうか?
今年5月から強行に工事が着工されました。
イラク戦争の膠着化のためとは、容易に想像できます。
-9月23日 Photo by M.Nalagawa

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October 05, 2004

沖縄報告_都市型ゲリラPhoto02

small04okinawa_139.jpg
沖縄は年三回も米が取れる亜熱帯、植物の生育が早いのですが
恩納岳はご覧のように草が茂っているだけの禿山です。
キャンプハンセンの実弾射撃の影響でいまも木が生えないのです。
この山の麓、写真左手撮影地後方に金武町伊芸地区があります。
訓練中は民家に何回も流れ弾が飛び込んできました。
榴弾砲が兆弾して飛んできたこともあったそうです。
米軍基地があることは命がけなんです。
国民の生命を守るはずの日本政府は、米軍の便宜を図るだけです。
現在工事がすすめられている「都市型ゲリラ訓練施設」は
この部落から数百メートルしか離れていません。
沖縄自動車道のすぐ脇に作られようとしています。
-9月23日 Photo by M.Nakagawa

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October 04, 2004

沖縄報告_都市型ゲリラPhoto01

SmallR104_04Okinawa_156.jpg
海兵隊の訓練基地キャンプハンセンでは、毎月のようにこのR104号線を通行止めにして、国道越えの実弾演習が実施されていました。小学生暴行事件を契機に見直しということで、現在、この訓練は北富士や由布院に移転されています。移転先では被害補償がされていますが、沖縄ではこの類の保証は一切ありません。キャンプハンセンがはなくなったわけでもありません。
-9月23日 Phto by M.Nakagawa

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October 03, 2004

沖縄報告_辺野古Photo05

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今日は秋分の日、お役所は全国的にお休みだから調査船もお休みです。調査船と抗議船が並んで辺野古漁港に停泊してました。その船のあいだで地本の子供たちは泳いだり釣をしたり・・・・・・でもテント村には県内からも県外からも平日には仕事があってこれない人たちがたくさんでした。
-9月23日 Phto by M/Nakagawa
次回から辺野古をはなれます

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October 01, 2004

沖縄報告_辺野古Photo5

small04okinawa_165.jpg
今日は秋分の日、祭日です。
沢山の人が辺野古のテント村に集まってきました。
午後になって3台のバスが到着。
鳥取、埼玉、東京の平和センターの人たちです。
村の人口が倍になりました。親子連れもいます。
新婚旅行に辺野古を選んだカップルもいます。
休日だけの参加も大歓迎。
何故って?毎日海で戦っているメンバーたちが、安心して英気を養えるからです。
こんなに沢山の人が辺野古の海を愛し、平和を守ろうとしているのは心強い限りです。
でも・・・中央のマスコミは全く取材にきませんね。
9月23日 Photo by M.Nkagawa

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